朗読台本・33 空(から)の音色
サクソフォンの調べが流れ、その音がまるでリボンみたいに店内に漂う、朝の時間が好きだ。
この時間は、人々の気持ちが、家から会社、半々くらいになっていて、リラックスと緊張の転換を行っている。
ぼくがブレンドに口をつけて、タブレット端末をいじっていると、パーティションごしの向かい側にカップとソーサーを持った女性が座った。
淡いグレージュのコートを背もたれに掛けて、しゃんと伸ばした姿勢で座っている彼女は、もう仕事に向かう顔なのだな、という気になった。嫌みの無い化粧が施された顔をうかがい見て、ぼくは再び、タブレット端末に視線を落とす。
ぼくの指が、無機質な画面に触れているころ、向かいの女性が、カップを持ち上げる。それ自体、とくに何か変わったところはなかったのだけど、彼女の、綺麗に整えられた細い指が、飲み物を口許に運ぶ姿を見て、なんだかとても魅力的に見えたのは確かだ。
翌日、偶然にもその店で、彼女と隣席になった。朝の凜とした空気の中で、コーヒーショップだけは穏やかな時間を提供してくれ、まだ寝たりないぼくたちに、仕事であるぞと時間を告げる。
ぼくは毎日、スマートフォンやタブレット端末を触っているけど、名も知らぬ彼女の指は、なめらかなカップの縁を撫でたり、時に音楽を奏でることがあった。と言っても、鍵盤はそこにはないから、彼女の指はテーブルを叩いているのだけど、その流れるような指さばきを見ていると、音楽にうといぼくでさえ、彼女の奏でるピアノを聴いてみたいと思わせた。
ある日ぼくは思い切って声を掛けてみた。「ピアノ、お好きなんですか?」と。すると彼女はびっくりして――かくいうぼくも、間の抜けたその質問に、びっくりしたのだけど――くりっとした目を、はじめて、ぼくと合わせた。
それから、彼女は自分が指をしきりに動かしている事に恥ずかしくなったのか、ちょっぴり、肩をすくめた。
「お邪魔でしたね」と、恥ずかしそうにする彼女に、ぼくは笑って首を振る。
「いいえ、大丈夫ですよ。でも、なんの曲を弾いていらっしゃるのかは、気になったかも」
彼女はきょとんとして、それから、ぼくの知らない作曲家の名前を教えてくれた。
彼女の弾む指先が、美しい軌跡となって踊るのは、いつ見ても素敵だった。
「よければ、今度、聴かせてもらえませんか?」とぼくがいうと、彼女は瞳を大きくした。
それから彼女とは、朝のコーヒーショップで会うより、会社上がりに会うことが増え、やがて彼女の知る、ピアノの弾けるレストランに招待され、彼女の指が、ほんとうの音色を奏で始めたころ、ぼくは、彼女とふたりでいることを、何より願うようになった。
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