朗読台本・36 Omnibus
四人掛けのボックスシートの列車に乗る事なんて滅多にある事じゃないから、その言葉が私に向けられたものだと気付くのに少しの時間がかかった。
上等そうな漆黒のコートから覗くループタイ。手にはスネークウッドのステッキ、見事な白髪。物腰の柔らかそうなご老人。
「ご一緒してもよろしいですか」
上品な彼はもう一度そう言って、私の向かいの席を見遣った。私は慌てて居住まいを正すと、どうぞ、と言った。ご老人は、ありがとう、と言って腰掛ける。
二人共、しばらく無言で夜窓を眺めていた。
流れゆく夜の灯りは、遠くのさざめきを感じさせる。あの灯りのひとつひとつに、人の営みがある。
「この歳になると、若い人と話をしてみたくてね。少し、話し相手になってもらえないだろうか」
向かいのご老人がにこやかに話しかけてきた。
私も微笑んで、ええ、とうなずく。彼は満足したように二度、三度とうなずき返し、手にしたステッキを両手で包むように持ち直した。
「あなたはどうしてこの列車に乗ろうと思ったのだろうか」
私は目を瞬いて、それから首を傾げた。そう言えば、意味はあったのだろうか。気がつけば乗っていた気もするし、明確な意志を持って乗った気もする。私は曖昧に笑った。
「何故かは分かりません。なんとなく、乗りたくなって。気付いたらいてもたってもいられなくなって、そのまま切符を買って……」
不思議なことを訊く人だな、そう思って私はにこにこと笑うご老人を見つめた。
重なって節くれ立った左手の薬指に、上品な金の指輪がちらりと見えた。
「ご結婚されているのですか、お連れの方は?」
ご老人はうん? と言って不思議そうな顔をした。それから思い出したように、ああ、と首を横に振る。
「昔の話だよ。遠い、遠い、昔のね」
ご老人は寂しげに遠い目をした。
「すみません、お尋ねすべきじゃなかった」
私は頭を下げると、彼はいや、と言って手で制した。
「構いませんよ。あなたもされているじゃあないか」
私は自身の左手に目をやった。銀の環が吸い付くように指に通っている。
「そうでした」
と、私がはにかむと、ご老人は破顔する。
「この列車に乗るとね、人の営みが見える。遠くの街並みや灯りを見ると、何故だか心が安らぐのだよ」
「奇遇ですね、私もです」
レールの切れ目を通る音が、私達のシートを揺らす。
しばらくく二人でそうして地上の星が流れゆく様を眺めながら、他愛の無いおしゃべりをした。
「あなたとお話しするのは実に楽しい」
ご老人はそう言うと、丁寧に櫛通された髪を少し弄る。私も同じだと微笑むと、彼は瞳に不思議な色を宿した。
私は両手を膝の上で組んで、親指同士を絡めていた。
不意に、左手の薬指に付けた環がきつくなったような気がして、右手の親指と人差し指で、指輪をつまんだ。指輪は少しの抵抗を見せながら、右へ、左へと回る。
途端、忘れてはいけない人の事が頭を過ぎった。悪戯っ子のような拗ねた顔、秘めやかに咲く、夜花のような控えめな笑顔。
そして、最後に見たのは……顔をしわくちゃのお婆ちゃんみたいにして、私の手を握る、泣いた顔。
とん、とご老人がステッキで床を突いた。なにやら満足げに頬を緩ませる。
「どうやらあなたの行き先が決まったようだ」
彼はそう言って立ち上がる。
列車がごとりと揺れ、スピードがだんだん緩やかになってゆく。
「待って下さい、あなたは……」
私が問うと、ご老人は漆黒のコートを翻し、にこりと笑った。
「いまの世で、どう呼ばれているか分からないが、きっとあなたの想像通りの者であるよ」
列車が停まる。私は降りなくてはならない。帰る場所があるのだから。
私はうっすらと目を開けた。
手を握る妻の名を微かに呼ぶと、彼女はまた、あのしわくちゃのお婆ちゃんみたいな泣き顔で、私を抱き寄せた。
いつか読んだ事のあるあの童話のようだな、と思いながら、私は指輪をした方の手で、妻の頬に残る涙の跡を辿った。
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